兵庫県豊岡市の「畑上のトチ」 (2002.5(小森さん)、2005.6.3(宮田さん))


 小森さんからお送りいただいたものが「畑上のトチ」であると永らく思っていたが、古くからこの木を知っておられる兵庫県朝来市の宮田さんから、間違いではないかとメールを頂いた。以下はその引用です。
 「はじめまして、私は兵庫の真中の朝来市に住んでいる宮田和男です。定年後樹木医の仕事をし、樽見の大ザクラ、ヒダリマキのカヤ・八代のケヤキ・糸井のカツラと一緒に暮らしています。縁ありて木々のリストを拝見いたしました、ところがその中の畑上の大トチの写真は、手前の写真ではないでしょうか、あの山を登り出合ったあのトチあと一息登ると出会えると思いますが今年になって2回出会いに行きました、台風の影響で2時間かかります。」
 その遠い山道を登って宮田さんが写して下さったのが最上段の、正真正銘の「畑上のトチ」である。樹高20m、幹周7.2m、トチの古木としては有数のもので、国の天然記念物に指定されている。トチで最大のものは、石川県の白峰村にある「太田の大栃」で幹周13mである。また、兵庫県で最大のものは、美方町にある「小長辿の大栃」は幹周9.62mであるが、これらに劣らない風格がある。写真を撮りに登られたときの感想メールも頂いた。
 「このトチに出会道が昨年の台風23号で痛んでおり、畑上地区から歩いて登ることになっています。6月3日に妻と一緒に登りました、彼女には、30分山登り付き合えと気楽に言いましたが、実のところ1時間40分かかりました。今年になって2回目です、5月連休に行きましたが途中雨に出会い、写真がとれず再度の挑戦でした。幹は、空洞になり、お化けのベッコウタケが生えていました。ベッコウタケの鑑定は菌学会の林康夫先生に送り鑑定してもらいました。幹の中は空洞で相撲が取れるくらいです。」
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 ここに辿り着くのはなかなか大変で、京都府の久美浜から三原峠を越えて、兵庫県の城崎へ抜ける道の途中にある畑上の部落から、南に4kmほどの谷間にある。かなりのハイキングを覚悟する必要がある。(地図参照)。
 2002年に登られた小森さんは、最下段の紀行文にあるように、随分苦労をして辿り着かれたが、本物の一つ手前にあった巨木のようである。

宮田さんが2005年に撮られた、「畑上のトチ」。


小森さんが2002年に撮られた、一つ手前の栃の巨木。



 ******小森さん(森 雲遊)の紀行文です******

 前々から訪ねてみたかった木があった。生まれたところにほど近い名のある巨木だったが、道中の厳しさもあってつい行きそびれていた。前の日に大体の道筋を叔母が聞き出してくれたお陰で、麓まではすんなり辿り着けたようだ。京都府久美浜から兵庫県城崎に抜ける三原峠を越し、下りきったところの四つ辻に親切にも「とちの木」と大書した看板が立っている。細い村道を畑上の集落に向かって入っていくと、数十メートルも行かないうちに村外れに出てしまった。しかも神社のところで二股に分かれている。とりあえず直進方向に進むがどうにも不安になって、近くを通りかかったお婆ちゃんに問うた。
「とちの木に行くのはこっちでいいんですか?」
「あんやあ、こっちでにゃあてあっちの道でぁあて。」
先ほどの二股のもう一方の道を行くらしい。
「あっちの道をずーっと行ってぇ、大きな堰堤があるしきゃあ、ずーっと下の方に下りて行ってぇ、そうだにゃあ、30分ぐらい登りゃあええかなあ。」
「その登り口ってすぐ分かります?」
「ワシりゃあ分かるけどぉ、あんたがたぁどうだかねえ・・・」
「ま、とりあえず行ってみます。ありがとう。」
腰の曲がった小さな体で手押し車にもたれかかったお婆ちゃんはニコニコと見送ってくれた。  二股まで戻ってもう一方の道に入り込み、ふと神社を見やると、何とも奇妙な木が目に留まった。ぽっかり空いた丸い穴から向こうの世界が歪んで見える。何だか異次元への入口のように見えた。帰りに立ち寄って確認すべくバイクを走らせたら、ものの数メートルで砂利道に入り込んでしまった。とても亀仙人のようなオンロードバイクで走る道ではないのだが仕方がない。がらがらじゃりじゃりかんかんきんきんこんこんばきばきぺきぺきべちゃぼちゃにゅりんと賑やかに石やら枝やら泥などを跳ね飛ばし、へし折って強引に突き進んでいった。沿道には紫のアザミが咲き、カラスアゲハやモンシロチョウが盛んに蜜を求めて飛び交っている。ハゼノキやヌルデが新緑の葉を大っぴらに広げて行く手に覆い被さってくる。小川のせせらぎに沿って2キロほど登ったところでお婆ちゃんの云った通り堰堤があり、無造作な看板が「とちの木」と左方向に矢印を向けて立っていた。滅多に人が来ることもないらしく、登ってきた道はもちろん、堰堤の下に行く道も草や苔で覆い隠されていた。シカやイノシシには無用だろうと、キーも財布も全部置き、カメラだけ持って堰堤に下りていった。ところが、数メートルで行き止まりになり、沢に下りる道など分からない。ひょっとして堰堤の上なのかと、元に戻って山道を登りだした。しかし、数百メートル行けども沢に下りる足掛かりさえ見つからず、結局また堰堤まで戻って来てしまった。
今度はすぐ横から探そうと生い茂るクマザサを掻き分けて行くと、何と、ほんの数メートルのところに腐りかけた小さな木橋を見つけた。恐る恐る渡り、対岸の堰堤の端までは小径があったので進むことはできたが、そこから先は道らしきものは見あたらない。あるのはイノシシの足跡と出来たてほやほやのシカやイタチの糞ばかり。所々クマの糞らしきものと爪痕もあったが、とりあえず獣道を辿っていくことにした。杉ばかりの林には食べ物がないから、トチノキのあるところに獣は行くはず。イノシシの足跡と糞を道標に険しい山の斜面をよじ登っていった。
 .....。
 更に道無き道を進むこと1時間近くかかってしまった。お婆ちゃんの云う30分は道を知っている人間の所要時間だったようだ。後で気づいたのだが、所々色あせた虎ロープが張ってあったのは、どうやらトチノキまでの道標だったらしい。そんなことも知らないオジサンは大汗かきながら獣道を一生懸命辿って山の斜面をよじ登り続けた。間近でウグイスやホトトギスが美しい歌声を聞かせてくれる。深山で聞く野鳥の歌声はボリュームが目一杯上がっているようで、活舌もはっきりと正しい発声法で実に心地よいコンサートを聴くことができる。そんなウグイスが「ここだよ、ここだよ」と教えてくれたところに、「畑上の大栃」は聳え立っていた。急斜面にしっかり踏ん張るようにして四方八方に大きく太い枝を伸ばし、梢には大きな葉をまさに「天狗の団扇」の如く幾重にも広げていた。
「おおっ、おみごと! ボクの生まれた時からずーっと見守ってくれていたんだよね。いやあ、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでしたぁ! 本日、ただいま、立野の和田の孫の立雄、こうして参上いたしましたぁ! 以後よろしゅうお見知りおきくださあい!」
誰も周りにいないから好き勝手なことを大声で云えるものだ。一端の舞台俳優のセリフのごとき発声で叫んでいた。周りの観客席からはウグイスやホトトギス、ヒヨドリたちの歓声が一斉に上がった。 大栃の肌に触れたくても、70度近い急斜面を登らねばならない。足を踏み外したらそれこそ谷底へ真っ逆様になってしまう。シダの根っこや何かしら草の茎、灌木の小枝を手掛かり足掛かりに必死でよじ登る。何度かずりずり滑り落ちながらも、頼りない木の根を藁をも掴む思いでしがみつく。
「ひいぇええ、ひぇええ、こわいよーいたいよー落ちるよー・・・」
手のひらが擦り剥けてひりひりするが落ちるよりましと、土の斜面から少し出っ張ったトチの根らしきところにぴょんと軽く飛び移った。だが、苔の生えた部分に足が乗った途端、ちゅるん! と滑って空中を蹴り上げる格好になってしまった。
「んぎゅあ゛ん!」
悲鳴とも叫びとも呻きともつかない奇妙な声を上げて滑り落ちかけたが、咄嗟にその滑った根っこに手が掛かって、ぶらあんとぶら下がる格好になった。見上げるとトチの葉が日の光を通して鮮やかに輝いていた。
「ふーっ、何だかトム・クルーズみたい。・・・ああ、いてっ。」
その時はミッション・インポッシブル2でトム・クルーズが岩山でぶらあんとぶら下がるシーンを思い浮かべたのだが、こっちの土の斜面の方が岩壁より軟弱で始末に悪い。体のあちこちに擦り傷や切り傷を作りながらも何とかトチノキの根元まで辿り着いた。幹周りは精々5〜6mなのだが、根の張りが幹以上に太く逞しく、上に広がる太い枝と相まって想像を絶する力強さを感じる。表には見えない根の張りは山の斜面に奥深くがっしりと大地を掴んでいることだろう。トチの谷側は土が抉られて切り立った崖になっており、そこを必死に登ってきたのだが、山側は一坪ほどの平地になってゆったりとくつろぐことができた。根っこ腰を下ろしてじっとしていると、ほんの目の前の山椿の枝にウグイスが留まり、美しい声で唄い始めた。...。
 ....。
 何とかバイクの姿が見えるところまで戻ってきた。堰堤の上に出てみるとまた違った風景に出会える。谷から見上げるとあんなに大きいトチノキが、どこにあるのか全く分からない。自然の風景の中では人間の考える大きさのスケールは無用のものとなる。子鹿の鹿子模様と同じく風景の中にカモフラージュされているようだ。尤も、山頂近くにある「畑上のトチ」は、昔から沖合に出た漁船の港に帰る目印となっていたそうだ。冬枯れの山に一際大きく枝を広げる巨木はよく目立っただろう。夏場に葉を繁らせると他の木々と紛れてしまって分からなくなりそうだが、昔はそれほど周りに木がなかったようだ。今は若い杉が林立し、トチの若木や朴の木も馬鹿でかい葉っぱを広げている。葉の大きさは老いも若きも変わらない。....。
 ....。
 畑上の村をあっという間に抜け、四つ辻まで来て振り返ったが、もうどの山にトチノキがあったのか分からなかった。新緑から深緑に変わりゆく木々はより多く大きな葉を繁らせて山々を染めていくことだろう。「畑上のトチノキ」は行きにくい場所にはあるけれど、今のままイノシシやシカと静かに暮らせる環境であり続けてほしいと切に願う「立野の和田の孫」だった。

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